Donnerstag, 4. April 2013

A little history of Punk in Germany, Vol.1. Old Fashion No.3, March 2012 (日本語版は下へスクロールして)

This is the 3rd column - German Punk history in a nutshell with no claim of completeness!
I couldn't find the English original but I'm sure if I dig a little deeper into the depths of my harddisk, it will turn up.
In this part I am talking about the early years and origins.

Chris Column vol.3  201203
Zurück zum Beton

今日はちょっと懐かしい話をしようと思う。ドイツのナショナルサッカーチームにみんなひげが生えてて、うちのお母さんがまだオレのことを”なんていい子なの!”と思っていた頃(笑)、70年代の終わりの話だよ。

もうコラムも3回目だから、ドイツのパンクの始まりについて書いたほうがいいね。今はツイッターとかブログ、facebookでなんでもすぐに情報を得られる時代だけど、当時はニュースが広がるのはまだまだ遅かった。

イギリスでパンクが出てきたころ、ドイツにはまだパンクはそれほど有名じゃなかったけど、ハッピーなディスコミュージックやロックスターのくだらない音楽にうんざりしている「怒れる若者たち」はたくさんいた。

当時のドイツは冷戦の最中で、もし戦争が始まったら真っ先になくなるのはドイツという国だった。赤軍(RAF)が支配階級に対する階級闘争を扇動して、1977年には強盗や襲撃、ハイジャックや爆弾騒動など「ドイツの秋」と呼ばれる動きがあった。社会は急激に揺れ動いていたんだ。

こういう状況がドイツのパンクを生んだのは当然だったし、ものすごいシーンになりそうな予感があった。それまでの音楽は日常とはかけ離れていたけど、自分の目の前で起こってる現実を「自分たちの言葉で」歌う音楽が必要だったんだ。でもやっぱりパンクだから政治的なメッセージだけじゃなく、うるさくて、ばかばかしくて楽しめることも大事だったんだけどね。

1977年に出てきた、ドイツで最初のパンクバンドって言われてるのが、ベルリンのPVC、デュッセルドルフのメール(Male)、ハンブルグのビッグ・ボールズ・アンド・グレイト・ホワイト・イディオット(Big Balls and the Great White Idiot)、ミュンヘンのパック(Pack)、フランクフルトのシュトラッセンユングス(Strassenjungs)なんかだ。1978年にはシュツッツガルトのノルマール(Normahl)もできた。

シュトラッセンユングスはいつもパンクとして語られるけど、新しいトレンドに合わせてレコード会社が作り上げたロッカーの集団で、実際にはそんなにパンクじゃなかったし、歌詞はかなりくだらなかった。でも彼らのファーストアルバムはそれでもけっこうおもしろかたよ。

PVCやビッグ・ボールズ・アンド・グレイト・ホワイト・イディオットはイギリス志向で、歌詞はだいたい英語だった。60年代以降、英語で歌うことがクールだったし、ドイツのロカビリーバンドはドイツ語で歌ってたけど、ザ・ラトルズ(the Rattles)や、ザ・ローズ(The Lords)、ザ・モンクス(The Monks)、ザ・ピーターズ(the Petards)とかのビートバンドはだんだん英語の歌詞に変わっていった。当時、トーン・シュタイネ・シェルベン(Ton Steine Scherben)とか、ベルリンで勢いのあったアナーキストのバンドは別にして、母国語で歌う人はほとんどいなくて、シュラーガ(Schlagerードイツの演歌だ(笑))とシンガーソングライターしかいなかった。でもミュンヘンのトルウートゥ(Tollwut)、ノルマール、シュトラッセンユングスはほとんどドイツ語で歌ってた。このときドイツ語で歌うことはポピュラーな音楽では新しいことだったんだ。

これらの初期パンクのあと、他のバンドが次々生まれて、シーンは勢いを増していった。多くの町でスクワット(不法占拠)やアナーキストのたまり場ができて、そこでパンクスたちがライブをしたりつるんだりするようになっていった。その動きは十分に影響力をもつようになっていって、若者たちの新しいムーブメントが生まれたんだ。

中心はもちろん、PVCとかカタプルト(Catapult)がいたベルリン、そしてコロナーズ(Coroners)、パンケンシュタイン(Punkenstein)がいたハンブルグみたいな大きい町だったけど、もう1つ注目すべき町はデュッセルドルフだった。デュッセルドルフはお金持ちの町として知られているけど、ドイツの初期パンクの中ではたぶん一番重要な場所だった。

ドイツ語で歌われた最初のパンクのレコードはメールのデビューアルバムだった。デュッセルドルフのZK(ツェット・カー)というバンドは演奏の仕方を知らなくてもとにかくやってみた(笑)パンクのいい例で、Der KFC(デェア・カー・エフ・ツェー)の虚無的でシニカルなパンク精神は、群を抜いていた。

初期パンクスの多くは、後に成功した。KFCのトミー・シュトゥンプフ(Tommi Stumpff)はエレクトロパンクの先駆けになったし、メールのユルゲン・エングラー(Juergen Engler)とベルンワード・マラカ(Bernward Malaka)はドイツの初期EBMのバンド、ディー・クルップス(Die Krupps)をつくり、ZKはドイツパンクのスーパースター、ディー・トーテン・ホーゼン(Die Toten Hosen)になった。

そのほかのデュッセルドルフ近郊のバンドには、ディー・フレッド・バナナ・コンボ(Die Fred Banana Combo)やミッタークスパウゼ(Mittagspause)、チャーリーズ・ガールズ(Charley's Girls)、そして後にディー・フェールファルベン(Die Fehlfarben)やプロパガンダ(Propaganda)になったS.Y.P.H.(スィフ)がいた。

あと一番有名なベルリンのニーナ・ハーゲン・バンド(The Nina Hagen Band)にも触れないとね。東ドイツからの移民だったエキセントリックなニーナは、初期パンクの時代に一番よく知られていて、最終的には世界中で有名になった。彼女がオーストリアのTVトークショーでマスターベーションのテクニックを披露してから、ドイツで彼女はパンクスのお手本になったよ(笑)。

でもそのニーナのTVショーのおかげだけじゃなくて、パンクロックは有名になっていった。1978年ドイツの一番大きく、有名なニュース雑誌のディア・シュピーゲル(Der Spiegel)がパンクについて取り上げ、そのタイトルは“パンク~スラムからの音楽:野蛮で醜悪”だった!(笑)そして70年代終わりには、パンクはドイツで話題になり、人々は新しい流行に気付くようになった。

でもそのときまでに、ドイツの初期パンクの波にいたバンドの多くはやめてしまってた。でもその動きはまだまだ続いていた…次回はドイツパンクとハードコア、そしてジャーマン・ニューウェーブについて話すよ。じゃあ、また!

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